/ 2020.03.16 /
3-6 /
目的因という名の呪い
目的因とは、アリストテレスの説いた四原因説に含まれる4つの原因の1つで、事物が何のために存在するか、行為が何のためになされるかを示す目的が、その事物の存在やその行為を理由づけるもののことを指す。言い換えるならば “そのものが存在する理由(〜のために存在する)” である。(例:ペンはなんのためにあるのか→書くため)
僕等の行動は常に目的に縛られている。 他者からは常に何をするにも目的を問われ、社会からは目的意識を持つよう日頃から教育を受けてきた。目的は全ての行いにおいて最上位に位置し、何をするにも目的を持った時点でその行動は目的という基準(達成したか、あるいは正しいか)にて他者から測られるようになる。最近はこのことが果たして良いことなのか疑問を感じるようになってしまった。目的と同等あるいはそれより高次に位置する価値基準もあるのではないかと。
そんな中『リヒター、グールド、ベルンハルト(杉田 敦/著)』を読んでいて、今の自分の頭の中に黒々と垂れ込める暗雲を綺麗サッパリ薙ぎ払うような記述を見つけたので、ぜひとも引用・紹介したい。
表現は生産である。生活世界を工場とする生産である。生活世界における生産は、意味は目的を知ることができない。なぜならそれは、意味や目的を構成する論理や言語と、少なくとも同じ高みまで立ち上がり、同じ精度で作動しているからだ。それは俯瞰できないのだ。それは分解できないのだ。別の言葉で言えば、それは、それ自体において意味や目的を示すことはあっても、言語などそれ以外の方法によってそれが示されるということはありえないのだ。生産されるものも同じである。それらは、それぞれが原子なのだ。
(P.238「絶望のマシーン」より引用)
「表現」の意味を辞書で引いてみると<心に感じたり、思ったりしたことを表情・身振り・言葉・文字・色・音などで表すこと>とある。当然アート的活動もあれば、この「表現」という言葉の中には、生きる上での意思表示のおおよそが含まれているのだと個人的には思っている。勝手に拡大解釈するならば「目的」すらも「表現」するうえでの一つのツールであり手段で、「表現」は「目的」と主従関係で結ばれているわけではないのだ。
サルトルの無神論的実存主義で示された「実存(存在)は本質(目的)に先立つ」という考えにも共通項が多数あるのかもしれない。(実存主義については次に読む予定)
自分なりにまとめると「実存は表現に先立ち、表現は本質に先立つ」ということになる。
実存主義について調べていた時に見つけた動画がとても面白かったので貼っておく。
PS4のゲームタイトルである『Detroit: Become Human』と『NieR:Automata』をサルトルの実存主義と絡めて紹介しており、より本タイトルに対して造詣が深くなった。こちらもおすすめだ。
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