/ 2019.05.27 /
OUTDOOR /
LANDSCAPE RESOLUTION / 目に映る景色の解像度について
僕らの目に映る景色というのは、おおよそ等しい。
故に、人と人とのコミュニケーションが成り立っている。
様々な種類の木々が生い茂り、太陽の日差しが木々の隙間を縫って山道を照らしている。
「ああ、綺麗だな…」と心の底から思う。
ここでふと、一つの疑問が脳裏に過る。……いったい何が綺麗なんだろうか?僕は何を見て綺麗だと感じているのだろうか?
ここで一つの仮説にたどり着く。光と影、色彩が織りなすシルエットを絵画的に捉え、その一枚の絵を見て綺麗だと感じているのではないかと。
一切の知識を持たずに絵画を見て、純粋に綺麗だと感じることはとても良いことだと思う。そこに様々な知識を重ねて絵画を紐解くと、絵画の解像度は何倍にも増し、見る手に更に多くの情報や感情を与えてくれる。
話を山に戻そう。
僕は目の前に広がる山の景色を綺麗だと感じるのと同時に、自分がこの景色について何も知らなさすぎるということに気付き、ひどく落ち込んでしまった。咲いている花の名前も、生い茂る木々の名前も、本当に何も知らずにここに立っていた。
スマートフォンアプリが指す地点を追いかけるように歩き、山頂を踏むと踵を返して下山する、といったことを繰り返していた。これはこれで自分にとってとても価値のあることだったが、僕が求めている価値はこことは違うところにある気がしていた。
もっと相手(山)のことを知りたい。そう思うようになったのは、この頃からだ。
冒頭に掲載した謎の画像の答えがこちらだ。
自分の目に映る景色の解像度をあげ、その景色に含まれた名や名残に気付き、正しく理解することこそ、自分が自分に対して求めている山に登ることの価値なのだと気が付いた。
まずはそのものの名を知るところから。
そして、その名が生まれた背景を知ること。名には意味があり、先人の知恵や発見が隠されている。
観点がひどく頭でっかちでいかにもオタク的だな、と我ながら思う。
でも、それでいいのだ。これは僕自身の、ギークな徘徊者によるマニアックな儀式(Geek Hikers Mani_fest)なのだから。