競合する差分

このブログのような何かを始めてから(正確な日付は把握していないが)結構な年月が経ったと思う。完全に私的な日記というわけでもなく、インターネットに漂う匿名の誰かが見ているかもしれないという前提の上で投稿を行ってきた。投稿先は今日びたくさんある。Instagram、Twitter、その他諸々。だのに此処を手放さないのは何でだろうと考える。惰性か?慣性か?そのどちらもきっと多少はあるだろう。上手く言い表すことのできない何かが間違いなく存在している。外堀を先に埋めるための発言をするならば、それは他の場所では代替不可能な何かだ。此処で登場する僕は、現実の僕とピタリと重なる部分もあれば、全くそうではない部分もある。それは脚色という意味ではなく、現実の僕が現実の僕をいくら書き記そうとしても僕を正確には現せないし、また、書いてしまうことでその時の僕が僕の手から離れていってしまうからだ。だからこそ、時折書いたものを読み返すと、全くの他人事のように感じることがある。書いて残し、ときには撮って残し、また録って残し、その全部を取って残そうとも、時間が堆積する過程で僕という存在は否が応でも変質してしまうのだ、と。残したものをパズルのように組み合わせてみても、僕という絵は浮かび上がってこない。ここまで書いて、じゃあそういう一切合財が嫌なのか?と問われれば、全くそんなことはなく、むしろそういう自分の差分を愛おしいとさえ思っている。此処を手放さない理由の一つに触れることができたかもしれないな、と思った途端お腹が鳴った。

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