雨が降ると分かっていたら、傘なんて持ってこなかったのに

「雨が降ると分かっていたら、傘なんて持ってこなかったのに」

夢の内容はすっかりと忘れてしまったが、誰かがそんなことをぼやいていた。
亀の歩みの如くゆっくりと進む台風10号の影響で、空は朝からずっと気だるそうな顔している。窓には雨粒がいくつかついているが、今はどうやら泣き止んだようだ。
コーヒー豆が切れていたので、朝一番のコーヒーは抜き。とはならず家中を漁り、登山用に買っていたインスタントコーヒーのスティックをなんとか1本確保した。これはもう自分の電源をONにするためのスイッチみたいなものだ。マグカップにインスタントコーヒーの粉を落とし、ケトルに水を入れて火にかける。湯が沸くまで本でも読もうかと思ったが、IHはあっという間に湯を沸かしてしまう。開いた本のページをすぐに閉じ、マグカップに湯を注ぐ。ミルクの甘い香りが立ち上がる。ブラックコーヒーを買ったつもりが、間違えてカフェオレを買ったんだったと再び思い出す。とりわけて苦いわけでも甘いわけでもないこの中途半端な味が、あまり好きではない。くわえて猫舌なせいでしばらくは口をつけることができないので、今さっき閉じた本を再び開いてページを辿る。本の中の彼は、僕より1時間程度遅れて、今ちょうど目が覚めたところだった。本の中は今は冬で、彼はちょうど二十一歳の誕生日を迎えていた。僕が君の夢を覗いたように、もしも君が僕の夢を覗いたとしたら、降り止まない雨の中、君はなんと言っただろうか。

◇ ◇ ◇

カフェオレでは僕の電源はONになってくれず、渋々コーヒー豆を買いに外へ出る。以前届いたバースデー割引ハガキを尻ポケットに突っ込んで。
ここ数年通っている豆屋に入ると、真っ先に目についた豆を指差し「これを200g、コーヒーメーカー用に挽いた状態でください」と伝える。豆に対して特にこだわりはなく、いつもこうやって目についたものを頼んでいる。ただ、ここ数週間を振り返ってみると生産者の写真がラベルになっている豆ばかりを頼んでいるふしがある。生産者たちは決まってカメラの方をしっかりと向き、皆誇らしげに育てた豆を両手に抱えながら微笑んでいる。一度目が合ってしまえば、無視なんてできるはずがない。
「焼き菓子も割引なのでよかったらどうぞ」と、店員さんに声をかけられる。うっかり声の方を向いてしまい、目が合う。一度目が合ってしまえば、無視なんてできるはずがない。「じゃ、じゃあ、これを1袋ください」と、目についた焼き菓子を反射的に指差す。勧められると断れない性格が顔を出す。レジの奥からは、豆を挽いた時の心地良い香りが漂ってくる。この香りにずっと包まれていたいと思う。もし僕が死んでお葬式をするときは、お線香を焚くのではなく、コーヒー豆を挽いてほしい。
目が覚めるような黄色地にアクセントで青色のロゴが入った紙袋に、挽いた豆と焼き菓子を詰めてもらい店を出る。車に乗り込みドアを閉めると、窓際についた雨粒が一斉に下へと流れ落ちた。

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