トーフビーツの難聴日記とメニエール

ここのところ時間をみつけてはtofubeatsの『トーフビーツの難聴日記』を読んでいる。この本の出版が発表になるまで、彼が突発性難聴を患っているとは思ってもみなかった。メディアやTwitterでみかける彼は、いつも変わらずやりたいことをやりたいようにやっていて、ストレスとはきっと程遠いところにいるんだろうと勝手に思い込んでいたからだ。

去年のたしかちょうど今頃、朝起きると左耳に違和感があった。耳の中に水が入った時のあの感じだ。普段、必要以上に耳かきをしてしまうので、きっとそのせいだろうと思っていた。けれど数日経っても左耳の違和感は消えなかった。仕事の合間をみて耳鼻咽喉科に行った。そして、この左耳の違和感にお医者さんから名前をもらった。メニエール病だ。ストレスや生活リズムが原因かもしれないとお医者さんに言われた。自分ではそんなストレスには全く見に覚えがなく、それがとてもショックだった。この病気は、僕が僕の知らないところで、僕を変えてしまうほどのストレスを抱えていたということを裏付けるものだったからだ。僕の左耳は低音をあまり聞き取ることができず、そのせいで時折平衡感覚を狂わせた。あんなに好きだった音楽も、昔ほど楽しめなくなっていた。今は薬の服用の甲斐もあり前ほどの症状はないが、それでも時々メニエールが顔を出すことがある。そんな自分と彼(tofubeats)を重ねて見てしまい、ひどく感情移入しながら本書を読み進めている。コロナもそうだし、メニエールもそうだが、起こってしまったことをいくら嘆いても現状は一向に好転してくれないし、苦しみながらも自分なりに妥協点を模索するしかない。相手が喋ったことが上手く聞き取れず、何度も聴き直す自分にうんざりする日もあるが、それでも、そういう自分と上手くやっていくしかない。僕に最後まで付き添い手助けできるのは、僕しかいないのだから。

こういうとき、いつも『もののけ姫』の最後のシーンを思い出す。デイダラボッチが命溢れる山を死の山に変え、人々が希望を失い落胆する中、新しい芽が息吹きはじめる。大切な日々は失われてしまったが、それはかたちを変え、新たな日々を連れてくる。変化の中でふと立ち止まった時、それまでの日々が大切だったと思えたら、それ以上のことはきっとないはずだ。

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