/ 2022.10.31 /
3-6 /
ぐるぐる
最近は貪るように歴史小説を読んでいる。吉村昭の『漂流』に始まり、熊谷達也の『邂逅の森』、遠藤周作の『沈黙』、三浦綾子の『塩狩峠』と数珠つなぎのように読み進めている。この作品達を通して強く感じるのが「信仰」の存在だ。それは仏であり、神であり、自然そのものだったりする。人智を越えた大いなる存在を信じ従うことで、不幸や苦難を生き抜くための希望を得る。また、大いなる存在に常に自分が見られていると思うことで、自分を律し、善き道を歩むための道標を得る。信仰は自分の行いを引いた目で観察する鳥の目であり、自分の行いを深く掘り下げ洞察する虫の目として機能する。そんなことをぐるぐると考えてしまう。
『沈黙』や『塩狩峠』では違う信仰を持つ人間同士が分かり合うことの難しさを、徹底的かつ残酷なまでに描いている。物語を追いかけながら、揺さぶられ、打ちひしがれ、落ち込んでいく自分の内面をどこか冷静に見つめつつも、何かきっと、きっときっと妥協点があるはずだと、希望的観測を捨てることができずにいる。今はその妥協点を見つけるために信仰関連の書籍を読み漁る日々で、とんでもなく難しい道に足を踏み入れてしまったなと思う。
最初に載せている写真は最近ヤフオクで落札した隠れキリシタンのマリア像。どんな思いでこの像に祈りを捧げていたのか僕には想像すらできないが、今こうして僕の手元にやってくるまでの長いあいだ、像としての形を留め残っていたという事実が、この像に対する人の想いの強さを代弁しているように感じる。