持続可能な社会のために

ここ数日のあいだ、全く首が回らない。これは比喩ではなく文字通り寝違えたか姿勢の悪さが祟ったかで、首が全く動かせずにいる。ガス海老を探しに近所のスーパーへと立ち寄った。ガス海老はあったが、鮮度が不十分だったのかお刺身用ではなく唐揚げ用だった。ガス海老はよく北陸近辺で水揚げされる海老で、甘海老を一回り甘くし、その分醜くしたような海老だ。鮮度を維持するのが難しく、大抵は北陸を出ることなく地元で食べられる。スーパーに並ぶときも甘海老の半値くらいの価格で倍の量を手に入れることができるので、好き好んで買って食べている。ただ、一つの欠点は殻をむく下処理がひたすらにダルいこと。ついでにその過程で殻がよく手に刺さる。ガス海老はできれば刺し身で食べた上で、殻を焼いてお味噌汁に入れたいので今回は購入を見送った。家に帰ると宅配ボックスにブコウスキーの本が放り込まれていた。宅配ボックスはファスナーも閉められていないし、南京錠もかけられていなかった。あまりによく宅配を利用するので、僕のところに届ける際の手続きが雑になっているように感じるのはきのせいか。別に構わないけれど。そういえばスーパーの鮮魚コーナーにお刺身用の鰤が並んでいたので1パック買って帰った。その鰤には仰々しいシールが張られていた。持続可能な社会のために、完全養殖で一から育てた鰤だそうだ。自然に生息している鰤を守るため、人が消費することを目的に生まれた鰤。持続可能とはなんなのだろうか。でもまあ、美味しいからそんなことは言ってはいけない。昔、購入した惣菜のシールを剥がし、商品名をヒトにしたうえで友人の背中に貼り付けるいたずらをしたことがあった。ただの無邪気ないたずらだったが、その行為の意味を今になって、どうしても考えてしまう。お楽しみのために取っておいたとっておきの一品は、本来の価値を発揮することなく台無しに終わる。晩ごはんを作りすぎたせいだ。好きな食べ物を最後に食べるか最初に食べるか。大人になった今「最初に食べたうえで物足りなければまた食べればいい」というのが、僕なりの結論だ。けれど、どうしても。どうしても最後に取っておいてしまうし、こんなことになってしまう。満腹を散らすために、煙草を吸う。煙草を吸うためにコーヒーを淹れてしまった。コーヒーを飲んだらまたお腹がいっぱいになってしまうというのに。持続可能な社会。その言葉は僕に『ソイレント・グリーン』という古いSF映画を思い出させる。そういえばどこにしまっただろうか。

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