あの丘に登って

キーボードを掃除するためにキーキャップを全て外し、キー配列を正確に写し取ったかたちで机に置き直す。キーキャップが全て外されたキーボードには、数ヶ月分の汚れがしっかりとこべりついていた。食べかすやホコリをハンディ掃除機で吸い取ってから、アルカリ電解水を吹き付けたウエスで丁寧に汚れを拭っていく。まめにエアダスターでゴミを吹き飛ばしていたつもりだったが、それでもゴミは溜まっていくらしい。キーとキーの間に設けられた細い溝に溜まったゴミは、無水エタノールに浸した綿棒でこそぎ落とした。綺麗に並べたキーキャップを左上から順に一つずつ取り、しっかりと拭いたうえでキーボードに差し込んでいく。取る、拭く、差す。取る、拭く、差す。単純な工程をひたすら繰り返していく。心がどうしようもなく不安定になったとき、こういう単純で、かつ、綺麗になるとか正常に動くとか、少しでも状態が良くなるような作業をしたくなる。10枚以上あるTシャツにアイロンをかけた。水回りを綺麗にした。エアコンを掃除した。床を磨いた。トイレも、お風呂も、洗面台もピカピカだ。心をどこかに置き去りにして、無心になる必要があった。『ストレンジャー・シングス』のシーズン4を最終話まで観終えた。最後まで周囲に理解されることがなかった人間が、最後まで理解しようとしなかった周囲の人たちを救っていた。「人はいつか死ぬのに、死に方や社会的立場でこうも扱いが変わるのは、個々の命の重さを区別し価値判断してるってことだろ」と誰かがTwitterでつぶやいていた。晴れ間を覆うように雨雲が空に広がっていく。重い灰色の雲だ。強い雨が降り始める。急いで窓という窓を閉めて回った。雨が窓を叩いている。雨粒同士がくっつきかたまりとなり、筋を作りながら窓ガラスの上を流れ落ちていく。ベッドで横になり、ケイト・ブッシュの『Running Up That Hill』を再生する。好きな音楽を頼りに、そこから抜け出す彼女の姿が見える。

Index
Prev
Next