ボンスター、自己の諸相

ボンスターで鍋を磨くという悦びを知ってしまい、暇を作っては鍋やクッカーを磨いている。とくにアルミ製のものを磨くと光沢がほんのり出てくれるので磨き甲斐がある。ホームセンターで買った2mm厚のアルミ板を山行時のテーブル代わりにしているが、これもまたボンスターで磨くとピカピカになった。磨くという行為には原始的な快楽が内包されているように思う。この原体験はそうか、保育園の頃、砂場で作った泥団子か。小学生の頃、りんご狩りに行った帰り道、1つだけ採っていいよと言われ悩み採ったりんごを帰りの道中一生懸命Tシャツでピカピカに磨いて母へのお土産にした、あの感じか。

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シェリー・タークルの『接続された心』を読み終えた。1990年代、PCとインターネットが庶民に普及し始めた頃に起こった、インターネット上(特にMUDについて言及)におけるアイデンティティについて綴った本。僕は今2025年に生きていて、僕の周りではAIだったりVRだったりが話題としてあがる中、30年以上昔に書かれ本著と今とを終始重ねて読んだ。シェリー・タークルはインターネット上で違う性別、違う名前、違う性格、実際の自分とは異なる人間として振る舞うことで立ち上がってくるペルソナを”自己の諸相”と呼んだ。現実世界でも僕らは会う人、所属する組織・赴く場所によって自分の見せ方を変える。それは確かに自己を偽っているような感覚を引き起こすが、自分の中に多くある面の一つを見せているとも解釈できる。”自己の諸相”という言葉には、そういうニュアンスを上手く含めることができている良い言葉だと感じた。

アイデンティティの崩壊のような感じに初め人々は悩むかもしれないが、いずれこの新しい可能性に喜んで応じるようになるだろうと、ジャーゲンは確信する。個人レベルでの自己という観念は薄れて、「関係性の段階になっていく。人は、自分をしっかりと取り囲むさまざまな関係から独立した自己があると信じるのをやめる」、「私たちはお互いの脳に住む。声として、像として、スクリーン上の言葉として」と、ラインゴールドはオンラインディスカッションで述べた。「私たちは複数の人格であり、私たちは互いを互いに含みあう」

『接続された心』(著 シェリー・タークル / 早川書房):第十章 アイデンティティの危機 より引用

SFとは事物のメタファレトリックであり、SF的要素は姿を変えて現実に同居している。

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