文殊菩薩の掛け軸

ヤフオクで掛け軸を落札した。文殊菩薩とその眷属である獅子が描かれたもの。真か嘘か模写かモノホンか全く分からないが狩野常信作らしい。もしモノホンなら数百年前のものということになる。文殊菩薩に興味を持つきっかけとなったのは、鈴木大拙の『禅と日本文化』に文殊菩薩のことが書かれていたからだ。

文殊菩薩は、右手に剣を、左手に経典をもつ。これは預言者モハメットを想起させる。しかし、文殊菩薩の聖なる剣は、生きものを殺すためではなく、われわれ自身の貪慾・瞋恚・愚癡を殺すためである。それはわれわれに向かって擬せられる。こうするのは、われわれの内部にあるものの反映であるところの外界の世界も、また、貪慾・瞋恚・愚癡から自由にされるからである。

『禅と日本文化』 鈴木大拙 著

貪慾(どんよく)は貪欲、つまり、手に入れたものではなかなか満足できず更にを欲する欲深さであり、瞋恚(しんに)は自分が思い通りにできないものごとに対して恨みをいだき怒ることで、愚癡(ぐち)は愚痴、愚かで思い悩み、ものごとの理非が分からず思慮に欠け疑心暗鬼になることをさし、仏教ではこれら3つを三毒煩悩というらしい。余談が長くなってしまったが『禅と日本文化』に書かれていた、文殊菩薩についての一文を読んだとき、他者を退けるための剣ではなく自分を律するために剣を携えている文殊菩薩をとても格好いいと思った。“三人寄れば文殊の知恵”の文殊も文殊菩薩を由来としていることも、この時知った。

自分も文殊菩薩のようにありたいと思い、日々の自分を戒めるためにも文殊菩薩を描いた何かを、常に見えるところに飾っておきたいと思ったのが事の経緯だ。ヤフオクにて「文殊菩薩」で検索をかけると様々なものがヒットするが、どれも強そうな見た目で、文殊菩薩の威厳や強さをどこか誇示したようなものが多かった。その中でとりわけて異彩を放っていたのが今回の掛け軸だった。結った髪が特徴なはずなのに、髪は結わずにだらんと無造作におろし、大きな特徴である剣も無く、経典だけを手に持っている。また、智慧の力強さを表すために獅子のうえに乗った状態で描かれることが多いはずなのに、獅子には乗らず、獅子に寄り添うように横に腰掛けている。文殊菩薩の目線もどこか悲哀と思慮にみちており、これら全てが僕の心を捉えた。仏という絶対的な存在に対して、こういう感情を抱くのはとても不思議だが、僕はこの描かれた文殊菩薩に人としての生き様や美学を見出していた。

今、文殊菩薩は僕が作業をしている机の真横に飾られ、振り向けばいつもそこに在る。自分が抱える悲哀を周囲への思慮に変え、静かに生きたいと思う。ただただ全てに対し、そっと寄り添う存在で在りたいと、そう強く願う。

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