動いている場(Le Champ en mouvement)

Henri Matisse Park, Lille, France, photo by Gilles Clément

context

以前、「バーチャル・サードプレイス 〜ネットにおける第三の居場所〜」という文章を書いた。〈バーチャル・サードプレイス〉は、レイ・オルデンバーグ1の〈サードプレイス〉2という概念を下敷きにしつつ、現代における新たな居場所(コミュニティ)の選択肢について論じたものだった。

居場所はそこにあるだけで居場所として常に効力を発揮するものではなく、必ず運営を伴うこととなる。
〈バーチャル・サードプレイス〉を運営していく上で、僕が最も影響を受けた著書の一つが、ジル・クレマン3の「動いている庭(Le Jardin en mouvement)」である。多くの示唆に富んだ本書において、彼が言っていることを(誤解を恐れず)要約するならば、

  • 庭は設計して完成させるものではない
  • 生命(植物)は勝手に動き、増え、そして消える
  • 庭師の役割は支配者ではなく、調停者・観察者
  • 介入は最小限に留める

という4点に要約されるように思う。
本書を読み進める中でこれら4点は、ほぼそのままコミュニティ運営にスライドできるのではないかと考えた。今までこの思いをきちんと言語化したことがなかったので、考えを整理するためにも今回重い腰をあげて文章に起こした。

なお本文は僕が僕なりに咀嚼・解釈したものなので、誤謬を多分に含んでいる可能性がある。が、庭とコミュニティのアナロジー4について楽しみながら読んでいただけると幸いである。


specifications

はじめに

コミュニティ運営について語られるとき、しばしば「設計」「ルール」「統制」といった語が前面に出てくる。だが、実際のコミュニティは設計図どおりに振る舞ってはくれない。人は想定外の発言・行動をとり、空気は勝手に変質し、沈黙や衝突・淘汰が生まれる。このとき私たちは、それを「失敗」や「ノイズ」と呼ぶべきなのだろうか。

フランスの造園家・思想家であるジル・クレマンが提唱した「動いている庭(Le Jardin en mouvement)」の思想は、この問いに別の視座を与えてくれる。

1. 「庭は完成しない」——作者性の放棄

“Le jardinier n’est pas l’auteur du jardin, il en est l’accompagnateur.”
(庭師は庭の作者ではない。ただ、その変化に伴走する存在である。)

【『動いている庭』(ジル・クレマン/著, 山内 朋樹/訳, みすず書房/出版)】より

クレマンの庭において、庭師は完成形を目指さない。庭は常に変化し続け、予測不能な動きを見せる。庭師はその作者ではなく、伴走者にすぎない。この視点をコミュニティに置き換えると、重要な転換が起こる。

  • コミュニティは「完成させるもの」ではない
  • 運営は「正解を与える存在」ではない
  • 起きる出来事は失敗ではなく、変化の兆候である

ここで否定されるのは、運営の責任ではない。
運営が全体を設計できるという前提そのものだ。

2. 無秩序は、理解されていない秩序である

“Le désordre apparent est souvent une forme d’organisation que nous ne comprenons pas encore.”
(いわゆる「無秩序」は、私たちがまだ理解していない組織化の形であることが多い。)

【『動いている庭』(ジル・クレマン/著, 山内 朋樹/訳, みすず書房/出版)】より

クレマンは、外来植物を含める雑草や繁茂を単なる「乱れ」とは見なさない。それらは土壌や環境の変化を示す、読み取るべきサインであると見なしている。
コミュニティにおいても同様に、

  • 荒れた議論
  • 内輪化
  • 冷笑
  • 沈黙

これらは「排除すべき異常」ではなく、場の条件が何を要請しているかを示す兆候として読むことができる。
強い運営は、これらを即座に消去しようとする。しかしクレマン的視点では、それは庭の声を聞かずに刈り取る行為に近い。

3. 介入は「正しさ」ではなく「タイミング」の問題

“Moins on agit, mieux on agit.”
(行為が少ないほど、より良い行為となる。)

【『動いている庭』(ジル・クレマン/著, 山内 朋樹/訳, みすず書房/出版)】より

「動いている庭」において、介入は否定されない。ただしそれは、最小限で、遅く、状況依存的である。
コミュニティ運営でも同じだ。

  • 即時の裁定
  • 先回りしたルール追加
  • 価値観の明文化しすぎ

これらは一見「責任ある対応」に見えるが、結果として参加者の試行や発話を萎縮させることがある。重要なのは「正しいかどうか」よりも、「いま介入することで、この場の生成可能性を狭めないか」という問いだ。

4. 運営とは「意味を翻訳する行為」である

“Ne rien faire n’est pas abandonner, c’est observer.”
(何もしないことは放棄ではない。観察という行為である。)

【『第三風景宣言』(ジル・クレマン/著, 笠間 直穂子/訳, 共和国/出版)】より

クレマンの庭師は、植物を支配しない。代わりに、変化を観察し、必要なときだけ支柱を立てる。この態度をコミュニティに当てはめると、運営の役割は次のように定義できる。

  • 衝突を「対立」ではなく「分岐」として捉え直す
  • 過激な発言を、そのまま削除せず文脈化する
  • 未熟な文化を、公式化しすぎず保護する

つまり運営とは、場で生まれた出来事の意味を一段抽象化し、返す存在だ。
これは権力ではない。だが、場の持続性にとって極めて重要な行為である。

5. 強い運営が失敗しやすい構造的理由

強い運営は、次の前提を暗黙に置きがちである。

  • 秩序は上から与えられる
  • ルールは先にあるほど良い
  • 想定外は排除すべき

しかしクレマンの思想は、これらをすべて裏返す。

  • 秩序は後から立ち上がる
  • ルールは行為の蓄積から生まれる
  • 想定外こそが生命の証拠である

コミュニティが死ぬとき、それは荒れたからではない。
生成する余地を失ったときに死ぬ。

おわりに ——管理ではなく、伴走としての運営

「動いている庭」という比喩は、コミュニティ運営をロマンチックにするためのものではない。
それはむしろ、

  • 管理欲
  • 正解主義
  • 即効性への誘惑

から距離を取るための、厳しい態度だ。運営とは、場を良くすることではなく、良くなりうる状態を壊さないこと、あるいは良くなりうる可能性や余地を常に残し続けることなのかもしれない。
僕はこの考えをジル・クレマンの「動いている庭(Le Jardin en mouvement)」に準えて、「動いている場(Le Champ en mouvement)」と呼びたい。


notes

  • ずっと頭の中で擦っていたことなので、きちんと文章に起こすことができて満足
  • 「動いている庭」のドキュメンタリ映画5が過去に上映されており、是が非でも観たいのだが、円盤化していないので見ることができない・・・
  • 最近だとこの動画からもジルクレマン味を感じ、ホクホクしながら観た
  1. レイ・オルデンバーグ(Ray Oldenburg)。アメリカ合衆国の社会学者。(レイ・オルデンバーグ - Wikipedia
  2. サード・プレイス(Third place)とは、コミュニティにおいて、自宅や職場とは隔離された、心地のよい第3の居場所を指す。(サード・プレイス - Wikipedia
  3. ジル・クレマン(Gilles Clément)。フランス人ランドスケープアーキテクト(ペイサジスト)景観デザイナー。作庭家。その他植物学者、昆虫学者、作家の顔をもつ。みすず書房出版の書籍では「ジル・クレマン」と表記されているので今回はこちらを採用した。(ジル・クレモン - Wikipedia
  4. ちなみに僕は、コミュニティと動物園のアナロジーについて考えることも多い。肉食動物と草食動物を一つの空間で共存させる上で必要なこととは・・・といった感じで。
  5. 動いている庭|The Garden in Movement
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