カメラ、カット、シークエンス

クリストファー・ノーランの本を読みながら「そうだ」と強く感じる。記憶を辿るとき、それはセピアでもモノクロでもなく、朧げなわけでもない、部分的に切り取られた詳細な記憶だ。熱を出した夜、祖父に傘を届けに雨の中を歩いたとき、いつも思い出されるのは、傘を打つ雨の感触を持ち手越しに感じているあの感覚だ。家族最後の遠出のとき、後部座席に座り弟の手を握っていたあの感覚だ。俯瞰できるような思い出は無く、詳細なカットの連続があるだけだ。今となっては大切な人の顔もろくに思い出せないが、剃り残された髭の具合や、顎にあったホクロの感触、事故で指を失い歪になってしまった右手。そういうものははっきりと描写できるし思い出すことができる。映画を観ながら、なんでもないカットに心惹かれるのはそういうことだったんだと、ようやく分かった気がする。

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